ゆりりんこの病活日記

心の病気と乳がんと乾癬 振り返りつつ心地よく生きる

めちゃくちゃ感動!傘寿の会!


小学校6年の時の担任の先生の傘寿の会があるとういうので、はせ参じてきました。

ま~なんと感動的なことがいくつもあったので、シリーズ化して、少しづつ報告していきたいと思ってますが。。。

40何年ぶりに大集合したわけでして。
なんともはや懐かしいといううか、。あえたことが奇跡に思えるといいますか

すごく、感動いたしました。

まず、自分の話から始めたいと思います。

私は、先生へのプレゼントに私が絵を描いた「ハチと博士のものがたり」を持参したのですが、授与式のようにしてくださり、フラッシュなどもたかれ、
皆さま「うおーっ」と盛り上がってくださいました。

そのあと、先生と、しみじみと語り合ったのですが、
先生は「お前はこんなこと好きやったもんな」
とおっしゃり。
私がその後、大阪芸大の文芸学科に進学したことや、30歳ぐらいの時に、陶芸の職業訓練校の図案科にて、絵の基本を学んだことなどをお話すると
「おまえも、いろいろあって、この絵本を出版できるまでになれたんやな」とおっしゃり、その優しい言葉にじーんとしてしまいました。

「おまえは、芸術的な感性が優れていたけど、たぶん芸能関係に進むんやとおもとった。絵本とは思わんだ」

「ほんとですか先生!すごい!ソコマデ私のことを見ていたくれたなんて!」

私が大学に進むときに、母が、大学なんていかないで、文学座とか、俳優座とかの舞台人養成学校に行くように勧めてくれたこと。断って大学に行ったものの、やはりそちらの道を選べばよかったと思ったこと。大学では、小さな演劇事務所に入り、着ぐるみを着たショーやミュージカルのバイトをしていたこと。

モデルとエキストラの間のようなこともして、CMに出たりもしたことなどを話しました。

先生は、うんうんと聞いてくれました。

そこで親友が「ゆりりんこちゃんは映画も出たんだよ」
といってくれました。

どんな映画?という話になりまた親友が「井筒監督の!ガキ帝国とかいう」
と叫んでくれました。
「テレビに出とる井筒監督?」

少し驚いて見えました。

実は私の出演した映画は「ガキ帝国パート2悪たれ戦争」というのですが、有名飲食チェーンでの乱闘シーンが問題になり、今はどうゆう手段でも見ることができないのが私も残念なのですが、、、。

私と知り合ったときは、井筒監督は有名人ではなくて、そこらにるおもろいオッサンだったことなどお話ししました。

そして、大学を卒業したらMC(司会業)の養成所でも行こうかと思っていたところで母が病気になり田舎へ帰ったこと、余命3か月といわれた母が4年間生きてくれたこと。看病頑張ったことなどお話ししました。
「おまえは、よー頑張った」と先生は褒めてくれました。

「俺は忘れられん!卒業式の後、みんなの前でおどって!楽しかったやないか!お前は、自分がなにかして、人が喜ぶのを、喜びにする子やった」

先生私そんなことしましたか?覚えてません、ほんとですか?今でも、仕事で、しょっちゅう踊ってるんですけど!

「そうやろな!そんな子やったわ!」

「そんな小さいころからそんなことしてたなんって思っても見ませんでした。今、職場で、帰りの体操の係なんですけど、皆さま高齢者じゃないですか、毎日、これが最後かもしれないから、明るく元気に笑顔で帰っていただけるようにと、笑顔で頑張ってるんです」

「そうか!お前は偉い!お前はそんな子やったで、今でもがんばっとるんやな。えらいえらい!」

私は小学生に戻ってしまい、先生の胸をバンバンたたいて「せんせーい」
と甘えたくなりました。

そして先生にそういう素養のあったこと「はよーおしえてくれなあかんわ」
などといって、笑いあいました。

まさに自分の人生の原点に帰った瞬間でした。

私は、人前でおどったりすることは、先天的に持っていたものではなく、生きてきた過程で学んできたものだと思っていました。

まさか、卒業式の後で、みんなが別れを惜しんで、しんみりしているのに耐えられず、踊りだしたとは!

そうなんです!しらけているとき、しんみりしてるとき、私は、その空気に耐えられず、踊りだしたり、面白いことしたりしてしまうのです。現在の私は。
それでこの間も失敗して、落ち込んだところだったのです。

はは=っ。子供のころからの癖ならしょうがないわね。

すぐれた教師というのは、そんなところまで子供を見ていてくださるんですね。感動いたしました。

まだまだ、感動的な話はどんどんあるのですが、今日のところはここまでとします。またね。